世界一正しいコーヒーの淹れ方

2019年7月18日 木曜日

コーヒーを飲みながら、こう考えた。
なぜ、こんなにも息苦しい世の中に、なってしまったのだろうか。
インターネットが始まった頃、社会は、だれもが自由に発言する機会が与えられ、闊達な議論を交わし、自立した精神が通い合う、そんな場所になる、はずだった。

ところが、どうだ。
間違ったことは、すぐに訂正され、より正確さが問われる。
言語はより制限され、あたかも正解が一つしかないように振る舞われている。
同調の圧力はいよいよ増し、はみ出し者は沈黙をつらぬく。
残された者は、正論をふりかざすか、論点をずらした第三の意見をひねりだすしかない。
そうでもしなければ、あふれた情報は精査されることなく、間違いは野放しのまま。
ひとつの情報では信じることができず、検索してぐるぐる回れば、何度も同じページにつきあたり、それ以上の情報は、ぱったりと途絶える。
誰かの意見に正面からぶつかれば、私の言葉は、誰かを傷つけるかも知れないし、一つの意見は、ひとつの意見を否定することにもなる。私は、誰にも否定されたくはないし、誰も否定したくはない。黙りこむことで、自らの保身をはかり、縮こまることで、平穏と安寧と退屈な日々を守っているのかもしれない。

これが、正しい生き方なのだろうか。誇れる、正しい行為なのだろうか。
私は、私の飲むコーヒーの一杯にさえ、疑問を持つようになった。
そして、ふたたび、こうしてキーボードをたたき始めたのだ。