八画文化会館は天下を取るのか!?



〜八画文化会館OPENに向けて〜

八画文化会館はスーパーローカルサイトである。
スーパーローカルとは何か、少々の説明が必要であろう。

我々日本人が想起する「ローカル」という言葉には、常にマイナー性とネガティブさが伴う。批判しているのではない。そういうもんだ、ということである。なぜなら日本人は「天下統一幻想」をいまも抱かされ、ぬぐいきれていないからだ。それは、戦国時代とともに始まり、徳川家康が江戸幕府を開くことで決定的になったと言えるだろう。

つまり江戸幕府こそ、スーパーローカル幕府だったのだ。
マイナー性をもったローカルが存在するには、メジャー性をもったローカルが必要だ。徳川家康が江戸幕府を開いたとき、メージャーローカルは京都だった。京都にはミカドつまり天皇がいたからだ。天皇が江戸城に引っ越して皇城(皇居)となるまで、東京は、ずっとマイナーローカルだった。徳川家康が幕府を開いた頃の江戸なんていうのは、ほとんどなんにもない荒野で、マイナーの中のマイナーで、京都から見れば、遠くて、全く関係のない地域だったのだ。

三河出身の徳川家康がなぜ、江戸に幕府を開いたかご存知だろうか?
私は知らない。

しかし、おそらくそれは、徳川家康が三河商人思想の持ち主だったからに他ならない。商魂のたくましさが、家康を江戸に向かわせたのだ。三河商人はケチというより節約家で、合理的、経済的に動く。その精神がトヨタ自動車にも活きていることは周知の事実。徳川家康が幕府を開く上で戦略上、三河よりも江戸に開くことを優先した。三河には武田の脅威が依然としてあったし、危険を冒して地元三河にこだわるよりも、確実で戦略的に有利な江戸の地を選んだのだ。江戸地方には北条氏等がもともと築いていた地盤があったし、家康はそれを掌握していた。なにより江戸は京都や大阪からも離れていた。京都はミカドの権力地であったし、大阪は豊臣秀吉の権力地だった。敵の脅威を受けにくいのだ。

徳川家康が三河よりも江戸が安全な土地であり、計画的に都市を発展させやすい土地と見込み、その見込みは成功した。以後260年以上江戸幕府は続き、日本の歴史上最も安定した政権を実現し、最も発展した文化の形成に寄与したのである。やがて地方出身者が集う場所、東京が誕生したのだ。経済発展に伴う人口流入の構図を鑑みても、東京自体がローカルの集合体であることに、ほぼ間違いは無い。こうした歴史上の経緯があったにも関わらず、現在もなお文化のメジャーは東京ということになってしまっている。つまり東京は、メジャーでありながら、同時にマイナーの集合体であるという両極性を併せ持つ都市なのである。それを「スーパーローカル」と呼ぶのはふさわしいことではないだろうか。

すなわち、我々が目撃する東京こそスーパーローカル都市なのだ。
スーパーローカル都市東京で成功を得るには、三河商人思想の実践が必要である。
かつて、東京を作った徳川家康がそうであったように。

八画文化会館は、いまの名を得るまで様々な変名を繰り返した。
それは三河商人思想に基づく戦略的必要だったに違いない。
愛知県漂流、東海秘密倶楽部、ローカル銀座、そして八画文化会館へ。名称から一視点でのローカルをはずし、全包囲的ローカルになったのだ。これぞ、スーパーローカルなのである!

八画文化会館は拠点を東京へ移すことで始まった。
三河に端を発し、名古屋で旗を揚げ、東京に拠点を張ったのだ。

徳川家康が三河の地をあとにし、新たに都市を開拓したことで成功をおさめたように、八画文化会館は今、新たな文化を形成しようとしている。

八画文化会館は天下を取る!
正確に言えば、天下を取るための手法を忠実に、そして着実に歩んでいるのである。
間違いない!

最後になりましたが、皆様のご健勝とご活躍、
そして八画文化会館のご発展をお祈りいたしまして、
ハナムケの言葉とかえさせていただきます。

2010年6月 どこまでも青い空の下
愛知県漂流 代表 遠藤文庫

コメント / トラックバック1件

  1. 盛大なエールありがとうございます!!!!!
    ミックスカルチャー(日本人少なめ)な大久保で、スーパーローカルなサイトを作るべく奮闘してますので、これからも援護射撃お願いしまーす!

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